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「メキシカン・カスティーリョ、日本初上陸!」

 昨年、長崎県「ハウステンボス」でのスーパーワールド花火イベントに
携わられた鈴木・ファリアス・真矢さんより寄稿文を頂きました。
 このイベントは世界各国の特徴をストーリー仕立ての花火と音楽で表現、
花火で世界旅行気分を満喫!をテーマに開催されましたが、真矢さんは
メキシコの花火師のコーディネーターとして活躍されました。

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 『メキシコの花火』からどのようなものを想像しますか。
残念ながら私には「あ~あの張り子の牛を被って踊るヤツ?」ぐらいの
知識しかありませんでした。『カスティージョ』と言われても、
「なにそれ?」とイメージは貧困でした。
 それほど私の日常と無縁な『メキシコの花火』ですが、ある日、
日本の花火師からの依頼で、メキシコの花火師とのミーティングを
通訳しました。その場所は『エカテペック』、郊外の少々危険な
臭いのする町です。恐る恐る行ってみると、無口な1人のメキシコ人の
花火師と昨晩のタコスによる食あたりに苦しむ日本の花火師がいました。
こうして『花火』と関わることになり、様々な困難と遭遇する始まりと
なりました。

 『メキシコの花火』の歴史は独立戦争後(1810年)から始まり、
エンターテイメントである日本の花火とは違い、宗教行事に行われることが
多いのです。『カスティージョ(お城)』はその名の通り、最長で
45メートルにもなる巨大な木造の骨組み構築でできており、
大小の美しい図柄が描かれたメタル製の車輪のような物を縄で括り付け、
速度を変えて回転をさせることにより、様々なイメージを楽しみます。
そうした車輪仕掛けの他に、打ち上げ花火、変化のある花火音を工夫し、
張り子牛に花火を飾り付けて踊る等、いかにもメキシコ的な見応えの
あるものになります。現在行われている花火大会で有名なものは
メキシコシティーの北方にあるトゥルテペック村で3月に開催される
サン・ファン・デ・ディオス祭です。

 最初のミーティングから、2カ月に一度は両国の花火師さん達にお会いし、
『日本へメキシコのカスティージョを持って行く』というプロジェクトに
通訳として働かせて頂き、ついにはメキシコ人の花火師14名を引き連れて
日本へ行くことになりました。
 イベントは長崎のテーマパークで11月に行われる『花火ワールドツアー』、
「メキシカン・カスティーリョ、日本初上陸!」というキャッチ・コピーを
掲げた計画は進められて行きました。
 まずは、使用される大量の火薬と巨大な木造の骨組みをバラした物を船で
日本へ運送しなければなりません。そして、カスティージョを組み立てたり、
火薬を取り付けたりする職人を14名日本に連れて行く・・・はずだったの
ですが、何事も計画通りには行かないものです。

 多くは海外へ行くどころか飛行機にも乗ったことのない花火師達、
日本行きのための準備が始まります。メキシコではメキシコ時間で物事が
進められていき、日本側は日本流に早め早めに仕事を終わらせようとします。
その狭間には作業を無事に進行させる通訳の私が居たのですが、
「火薬が送れない・・・」というトラブル発生の連絡を受けました。
 花火に使用する火薬のコンテナを一旦は引き受けた海上運搬会社からの
運送拒否が発生し、他の会社を探してはみたものの、時間的に運送は
不可能になりました。緊急ミーティングの結果、メキシコ製花火用火薬と
実際に使用する日本製の火薬の使用時の効果の違いに心配が
ありましたが、火薬は日本側が準備することになりました。

 そして、いよいよ日本上陸。長時間のフライトに疲れてはいましたが、
まずは、福岡に全員無事に到着しました。
しかし、また予期せぬ事態が・・・花火師より前に到着していなかれば
ならなかった木製の骨組みが入ったコンテナが台風の影響により
足止めされていたのです。不吉な予感を抱えながらも作業を始めました。
そして、翌日から鹿の鳴き声が聞こえ、イノシシが歩き回るほど
山奥にある花火工場で火薬の実験等を開始しました。

 メキシコとは異なる習慣の日本で、言葉が通じない14人の食事や
買い物の世話をするのは非常に大変で、こだわりの強い職人気質の
花火師もいたため、日本側の職人と口論になりそうな場面もありました。
それでも、中立的な立場で通訳をすることでなんとか乗り越えました。
しかし、楽しいことも多くあり、メキシカン音楽を聴きながら陽気に
働くメキシコ人に励まされたりもしました。メキシコの文化の一環である
カスティージョを日本で紹介できるという彼らの喜び、仕事に対する
プライドを感じることができると同時に花火ショーが成功するか
どうかの不安やストレスに手際よく対応できるタフな彼らを見ることが
できました。

 結局コンテナは本番ギリギリに到着し、いよいよ作業のラストスパートです。
連日の夜遅くまでの仕事で疲れている花火師達と福岡の山奥から
長崎へ向かいます。テーマパークに到着し、休む間もなくカスティージョを
組み立てる徹夜での作業が開始します。
 11月の夜の冷たい海風に吹かれながらの仕事は翌朝にはなんとか終えて、
ホテルに車で移動することになりましたが、花火イベントの交通規制が
かかるため、シャワーや着替えのために30分だけ与えられました。
 ようやく、本番のためにメキシコから準備して来たお揃いの花火ショー用の
服に着替えた花火職人は緊張のためか無口になっていました。
 最終確認を終え、広い花火ショー会場を見渡すと、暗くなるにつれて、
少しずつ観客が集まり始めてきました。私が想像した以上に観客が大勢いて、
こんなにメキシコの花火に興味を持ってくれているのかとワクワクしました。
観客の「お~!」という歓声と同時にカスティージョのショーが始まり、
伝統的な仕掛け花火がメキシカンミュージックともに繰り広げられていきます。
 大きなアステカ・カレンダーが火花を散らしながらクルクルと回り、
からくり花形の花火が夜空に展開しました。メキシカン花火は観客を魅了し、
無事に終了。花火師達は安堵の表情を浮かべています。テレビ局の
インタビューにも嬉しそうに対応していました。

01.jpg


 花火大会の第2部は日本側のショーです。私はメキシコの花火師達と
海から上がる花火を特別に一番近くで見ました。仕事を介して出会った
花火師と共に、このような美しい日本の花火を見ていることが
とても不思議でした。
 2文化で育った幸運と、こうした体験をとても楽しく感じました。

 残りの数日は後片付け、観光、買い物、楽しい食事会等であっという間に
過ぎ、帰国後、メキシコの花火師達は空港で大勢の家族とマリアッチに
迎えられたそうです。色々なことがありましたが、このような機会を
与えてくれ、とても親切に対応してくれた日本の花火師さん達に
感謝の気持ちでいっぱいです。
 メキシコと日本の文化の絆を深めることのできるこのような
伝統文化交流がこれからも多く行われ、それらに積極的に関わっていく
機会が増えることを期待しています。

鈴木・ファリアス・真矢




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今年もよろしくお願いします

またもや久々の更新ですが、今もメキシコシティの片隅で細々と生きています。
流れ流れて行き着いたメキシコ生活も9年目を迎えました。

たまに日本に帰りますが、生活の基盤も人間関係もこちらにあるので
逆に不便かなと旅行者気分ですが、今回は約10年ぶりに年末年始を
日本で両親と過ごしたので、年始メキシコに戻ってからえらいホーム
シックにかかってしまい3週間ほど鬱々と過ごしておりました。

まぁ1月中は新年ということで、お花畑の頭で色々と今年の抱負など考えて
おりました。
しかし昨年の気づきといえば、車生活であまり歩くことがないので靴下が
擦り切れない、破れない、といったことくらいしか思いつきません。

あとは、私が1人黙々とパソコンソフトの技術を磨いたり、落っことして
壊したりしている間に、世間は結婚したり不倫したり離婚したりととても
忙しいようなので、今年は私もこの3つのうちどれか1つでも経験してみたいと
ほくそ笑んでいます。

目標といえば、アパートを買う為に貯金しています。
日本帰国時に空港まで見送りに来てくれた母親に「お金が必要なら言いなさい」と
言われ「アパートが買いたい」と即答したところ、ちびまるこのおかんの
ごとく「バカッ」と怒られました。
大阪人にバカと言われるとは、私のアホさ加減は相当なもんです。
メキシコのアパートくらいポンッと買ってくれるヤクザな家庭に
生まれたかった。
父ちゃん、お年玉ありがとう。









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メキシコシティからの地震レポート

メキシコシティを襲った大地震からちょうど1週間、やっとご報告が
できる状態になりましたので、レポートをお送りします。
執筆は日墨協会事務局勤務Aです。

 2017年9月、メキシコは3回にわたり大きな地震に襲われた。1度目は
7日深夜、チアパス州フチタンを震源とするマグニチュード8.2の大きな地震で、
800キロ離れたメキシコシティ、火山岩の上に立つ私の自宅でも揺れを感じた。
天井から垂れる長いコードの電球が左右にユラユラと揺れたが、近隣住民が
外にでてくる気配もないので、そのまま眠ってしまった。

 翌朝、現地で建物が倒壊した生々しい写真が多く報道され、地震の大きさを
知った。日墨協会では義援金を募集、有志が現地入りし、必要物資を提供する
ことになった。

 それから12日後の19日13時14分、メキシコシティの隣、モレロス州
アソチアパンを震源とするマグニチュード7.1の地震が発生した。
奇しくも32年前メキシコシティを襲った大地震と同じ月、同じ日である。
発生時、私は事務所にいたが、すぐに駐車場に飛び出した。日墨協会の広い
駐車場の上はまるでトランポリンのようで、私は呆然として車、事務所内の
電球のカサが左右に揺れる様を眺めていた。家族を心配し、泣きながら避難
してくる者や、気を失った従業員もいた。

 直後、電話、電気は全て不通となったので、車のラジオをつけながら
SNSで友人と安否を確認しあった。今回被害のひどかったローマ、コンデサ
地区で建物が崩壊しているというニュースが流れたが、私が住むシティ
南西部では電気もインターネットも使えているという情報を得たので
帰宅することにした。

 帰宅路は、家路を急ぐ車の列で渋滞が続いていた。バスが来ないので
徒歩で帰宅する人も多くいた。途中、友人たちから倒壊した建物、煙が
あがるメキシコシティの街並みの写真が続々と送られてきた。いつもの
3倍の時間をかけて自宅に戻ったが、幸いうちはいつもと変わらなかった。
インターネットでライブニュースをつけたが、人々が地震発生直後から
倒壊した建物のまわりに集まり、流れ作業で瓦礫を撤去している様子が
流された。がれきに埋もれた被災者の声が聞こえるようにと、両手こぶしを
上に上げ、「静かに」というジェスチャーが何度も繰りかえされた。
メディアは真夜中も中継を続け、翌日は学校は全て休校、無用な外出は
避けるようにと繰り返し伝え続けた。

punos_arriba-silencio-temblor-sismo-rescate-topos-milenio-noticias_MILIMA20170920_0351_8.jpg

 メキシコ政府は日本政府に救助隊の派遣を要請し、21日、72名の
国際緊急援助隊のメンバーが到着した。彼らは日墨協会を本部とし、
メキシコ政府の指示で数グループに分かれ、順に被災現場に出動していった。
 この日、建設機械を世界に展開する「コマツ・メキシコ」の副社長、
H氏が来館、救助隊への重機の無償援助を申し出られた。

 翌日、重機貸し出しに備え現場視察を希望する橋本氏に同行し、日墨
協会カメラマンO氏とともにトラルパンの現場に出向いた。倒壊した建物は
トラルパン通りに面する1957年に建てられた公営団地で、11の建物から
構成されている。倒壊したのは団地の敷地内中心に位置する、近隣住民向け
へのカルチャーセンターを擁する建物で、この付近で生まれ育った私の友人も、
幼い頃はここで英語を習っていたという。

 倒壊現場から500メートルほど離れたところに駐車し現場へ向かう途中、
多くのボランティアとすれ違った。家族親戚一丸となって食事をふるまう人、
コーラを配る人、揺れでさらに倒壊が進むのを避けるため、今は運行停止と
なっている、近くを通る電車の再開をやめるよう周知を手伝ってくれ、と
声をかけてくる人、その間にも水やジュース、サンドイッチなど多くの
物資が届いていた。
 日本からの救助隊は在墨中、ほとんどをこの現場での活動に終始した。
救助犬はがれきの下で震えていた犬を発見した。

 また、ポルタレス地区の現場で遺体が運び出される際に、日本からの救助隊の
メンバーがヘルメットを取って黙祷した映像はメキシコのニュースで
繰り返し流され、メキシコ人だけでなくメキシコに住む日本人の心にも訴えかけた。

mex01.jpg

 5日後の23日7時53分、メキシコ市中を警報が響きわたった。
事務所にいた私はまた慌てて駐車場に飛び出したが、幸い揺れなどは感じなかった。
ニュースでは8日の震源地から20キロほどしか離れていないオアハカ州
ウニオン・イダルゴを震源地とし、マグニチュード6.1の地震が起こったと
報じていた。
8日の地震から2週間、まだ何の復興も行われていない中での再度の被害だった。

 この日の午後、メキシコシティ東西を横切るビアドゥクト通りを車で走った。
今回被害の多かったローマ・スール、ナルバルテ地区に位置する建物の外壁が
剥がれ落ち、部屋の中が丸見えになっている建物を散見した。それまで一切被害の
なかった自宅と職場しか往復していなかった身にも、今回の地震が現実のものと
して見えた。

 今回被害の大きかったローマ、コンデサ地区は、レストランやカフェテリアが
ひしめき合うメキシコシティでも有数の繁華街である。ヒップスターと呼ばれる
現代感覚に敏感な若者たちが集い、この地区に住むのがステータス、と憧れを
募らせる地区でもあるが、地盤が弱いことで有名である。
今回建物が倒壊し、メキシコだけでなく各国の救援隊が
救助活動に働いているローマ・ノルテ地区にあるアルバロ・オブレゴン通り
286番地は多くの人が生き埋めになった。
 通りの向かいに位置するピザ屋は週末の土曜日から営業を始めた。
さすがのメキシコ人も、そこではピザを食べビールを飲む気にはならなかった
ようだが、別の通りのレストランはいつもと同じく若者で賑わった。

 メキシコシティではあちこちで救援物資受付所が開設され、水、日用品が
山のように届けられた。食べ物は腐るので持ってこないで欲しい、とニュースで
繰り返し呼びかけられるほどだった。
 
 地震が起こってから、さまざまなデマや憶測が飛び交った。地震直後の
帰宅渋滞の動けない車の運転手を狙って、強盗が何件も起こった。
ボランティア活動に出向いたところ、昼日中から強盗に襲われた、住民が
避難した無人の建物に泥棒が入っているという話も聞いた。建物の安全を
確認すると言って家の中に入ってくる押し込み強盗への警告も出回った。
日本からの救助隊のニュースが流れると、まだメキシコに到着していない
にもかかわらず、「現場に到着して言葉が通じず何もせずに帰った」「通訳が
足りていない、至急どこそこに来てほしい」といった根も葉もない噂に
我々は頭を痛めた。また、メキシコ政府と民間防衛団体(Protección Civil)の
機能不全にて、救助隊が十分に活躍できなかったという記事が出回ったが、
あながち全て嘘ではない。

 メキシコは傷だらけになった。私たち誰もがこの国の復興を願い、できる
だけ早く日常を取り戻したいと思っている。
 

プロフィール

tono

Author:tono
社団法人 日墨協会
Asociación México Japonesa
Fujiyama 144, Col. Las Águilas, México, D.F.
5651-9382, 5593-1444, 5593-5285, 5680-1159

レストラン、日本語教室、マンガミュージアム、テニスコート、プール、日本文化・スポーツ教室、レンタルサロンetc...

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